東日本大震災ドキュメント01

この度の東日本大震災により被災された皆様に心より御見舞い申上げます。

震災後、電話線も切れ連絡不能となり、皆様に大変ご心配をおかけしましたが、ようやく混乱も収まりホームページを更新できました。
これまでの経過をお伝え致します。
(なお、現在は電話0225-45-2301は回線再開しております。)
※御祈祷を受けられる方は、必ず予めご連絡下さい。

1)前兆?

大震災発生に先立つこと、3月8日に総合防火訓練を行った翌日、3月9日午後11時45分、三陸沖を震源とするM7.3の地震がありました。石巻市で震度4、東北地方三陸沿岸に津波注意報も発令され、地震被害についてのお見舞いの電話もありました。今でも金華山社務所においてある新聞は、この地震が一面となった10日のもので止まっています。翌日10日にも午前6時24分同じく三陸沖震源のM6.6の地震があり石巻市で震度4、今から振り返ればこれらは前震とも言えるものでした。

この二日間において社員の出入りもあり、11日当日に帰社した宮司を含め、震災時に島に残っていた職員は15名でした。

2)3.11 東日本大震災当日

平成23年3月11日、金華山島内にはオフシーズンということもあり、一般参拝者は17名、工事関係者2名、グリーンパル石巻森林組合6名の計25名に加え、山小屋1名、宮司以下職員15名の合計41名がいました。
午後2時46分、その瞬間、M9.0の巨大地震が全島を揺るがせました。
金華山はあの地震の震源地に最も近い場所にあり、その地震を体感した者は、「この世の終わりかと思った」「とにかく尋常じゃなかった」と後述しています。
揺れは縦に横に、とても長く感じられ、もの凄い地鳴り・海鳴りでした。
マイクロバスで桟橋に下がっていた人たちが土砂崩れの参道を駆け上った数10分後、海は鮎川方面と女川方面に波が引いて割れ、牡鹿半島まで歩いて渡れるほど海の底が見えました。

鹿山公園から牡鹿半島を望む

 

その後すぐに津波が押し寄せ、第一波、第二波、第三波、第四波まで観測されています。
日本において戦後最大となる被害状況も、その頃は情報が皆無のため想像するだけで全く分かりませんでした。

倒壊した明治期の石鳥居

 

倒壊した拝殿前常夜燈(拝殿に向かって右側)(日本三大燈籠)

 








幸いにも、人的被害はやけどを負った者1名で、明治期の御社殿は全くの無事でした。

境内には鹿の姿が全く見えなくなり、11日当日夜、完全な停電・断水となりライフラインは絶たれ、通信手段も無く、下山不能となった41名が大広間や参集殿にて宿泊することとなりました。
当日は雪もうっすらと積もる厳しい春の寒さの中であり、境内で暖をとり、寝具を神社より提供して、在庫分の食材にて食事を出し、未だ大きな余震が続く中、殿内の安全と思われる場所に皆が移りました。
情報はラジオのみで、断片的であり、皆今回の地震は只事じゃないとの不安を抱えたまま、それぞれに眠りにつきました。

3)その後の2週間

翌日12日、奇跡的に残った観光定期船二隻が迎えに来てくれたため、前夜宿泊者25名と、怪我を負った職員1名は無事に島を出航することができました。
島内ではライフラインの復旧がやはり最大事となり、水は金光水というお水取り場より汲む作業が始まりましたが、地震復旧作業は困難を極め、手がつけられず身辺の片付けを行う程度にとどまりました。
船は多量の漂流物、桟橋の地盤沈下のため操行困難であり、島は完全に孤立する状態となりました。
しかし、14日午前中広島県警レスキュー隊が、急病人、怪我人などを調査に来山し、午後3時頃には、海上自衛隊横須賀基地の護衛艦「わかさ」が来島し、緊急物資・非常食を搬入し、職員12名と山小屋1名は、海上自衛隊の護衛艦2隻とヘリコプターにて離島することとなりました。

名誉宮司・宮司・宮司夫人の3名は地震からの2週間を島内に残って、神様をお守りし、復旧活動と避難生活を続けることとなりました。
時折、陸上自衛隊が来島し物資を届けたほか必要品をメモし、航空自衛隊が来島しヘリで物資投下を行ったり物資を届けてくれました。
物資輸送後自衛隊員は全員で本殿に向かい整列し、二礼二拍手一礼にて参拝していかれました。
2週間後、仙台霞目陸上自衛隊より、神社奉仕のためとは言え長期に渡ることから、離島勧告があり3名はやむなく金華山を離れることとなりました。
3月25日の午後のことでした。

4)1ヶ月の復旧作業

社員全員が島を離れたため、仙台市宮司宅を拠点として会議を重ね、4月4日には工事関係者とともに再び金華山に上陸して復旧作業を続け、電力関係者も合流して電気が復旧しましたが、4月7日金華山下山後の夜、午後11時32分M7.4の最大余震が宮城県沖で起こり、この地震も爪痕を更に深くしました。

倒壊したもう一基の常夜燈

石鳥居脇の石燈籠

崩壊した参集殿前の石垣

 

それ以降は、やはり仙台市宮司宅を拠点に社員が集まり、話し合いと作業を頻繁に重ね、一段落が着いたところで再び4月15日には社員のほぼ全員が金華山に上陸し、二班に分かれて交代で神社を守ることとなりました。

復旧作業はライフラインとなる水の補給経路の確認補修から始まり、1ヶ月の不在と地震の影響により汚れた御本殿以下の殿内の掃除を始めることとなりました。

参道の整備も、社員が重機を活用してトラック一台が通れる程に土砂を取り除き、地震で外れて割れた窓部分にはブルーシートを張るなどの作業も行いました。


4月21日には自衛隊帯広駐屯地からの視察もあり、何が不足しているか聞き取り調査を行っていき、4月27日には海上自衛隊によりホバークラフトにて輸送艦「しもきた」に乗船して、お風呂と物資提供も戴いております。

1号桟橋に接岸するホバークラフト

ようやく日常奉仕もできるようになり、朝夕の掃除もしっかりと再開し、毎日国旗を揚げ、朝の御日供祭にては海難物故者供養の祝詞も奏上することとなりました。

御社頭にて風にたなびく国旗

 

5)5月初巳大祭斎行す

金華山は辯財天信仰が古くより厚く、例年五月初巳の日が本祭、前日が前夜祭、そして初巳の日から一週間毎朝の開扉祭を盛大に斎行してまいりました。期間中の日曜日には神輿渡御も行われ、ゴールデンウイークや桜の見頃も加わってこの一週間は多数の参拝客で1年間で最も賑々しく盛り上がりを見せる祭典期間となっていました。
しかし、震災後1ヶ月を経たばかりの金華山では地盤沈下による桟橋の冠水という状況のため渡航は困難で、多数お申し込みのあった初巳大祭祈祷はすべて郵送であり、巳の刻午前十時から始まった初巳大祭本祭の御神事は、元崇敬者総代の三上様1名と社員2名の参列のもと、厳粛に執り行われました。

初巳大祭は一週間続けられ、連日の毎朝の開扉祭に夕方の閉扉が欠かさず行われて、参列者こそ居られなかったものの、無事8日の閉扉祭を迎えることとなりました。

▲このページの先頭へ